Interview

修了生のその後

1人で出来ることには限りがある。だからこそ、種をまき続ける。

第1期くまもと☆農家ハンター/株式会社イノP/有限会社宮川洋蘭

代表取締役 宮川 将人

宇城市戸馳島(うきしとばせじま)にある宮川洋蘭の3代目、サイバー農家。そして農家ハンターという3つの顔を持ち、全国各地を駆け回る多忙な日々を過ごす宮川将人(みやがわまさひと)氏。

Project180(以下、180)ではくまもと☆農家ハンター(以下、農家ハンター)としての活動を県外パートナーと共に考え抜き、会社設立からクラウドファンディング、さらにはジビエの加工場をつくるなど、着々と、しかしスピーディに事業を加速させてきました。2021年9月に開催したProject180サミットにもご登壇いただき、2018年の180修了後に設立した「株式会社イノP」の事業が加速している真っ只中にお話を伺いました。

「世界一の花屋になる」幼少期から渡米後も変わらない夢

ーラン農家のもとで育ったそうですが、幼少の頃から家業を継ぐことは考えていらしたんですか?

宮川氏「小学校の卒業文集に書いた夢は『世界一の花屋になる』でした。書いたことは自分でもすっかり忘れていて、後になって気が付いたんですけどね。

私も父親も熊本農業高校の出身なんですが、中学2年生のときに父親の恩師と話す機会がありました。その方に『宮川くんは将来、大きい海を泳ぐ魚か、それとも小さな池に留まる小魚のどちらになりたい?』と聞かれたんです。思春期の人間が「小魚になりたい」なんて言わないですよね(笑)そうすると先生は、大学に行くことを勧めてくれました。

もともと大学に行くつもりはなかったんですけど、その先生の言葉を受けて熊本農業高校、そして東京農業大学に進学しました」

ー大学では1年生の頃にインドに1ヶ月行くなど、4年間で合計13カ国を一人で旅して回ったそうですね。卒業後はオランダとアメリカで花修行をされたと聞いています。

宮川氏「オランダでは当時、10年に一度の花の祭典がありました。ただ、オランダのフラワービジネスはハイテク過ぎました。フラワービジネスにおけるロボティクスの勉強がしたい訳ではなかったので、経営を学ぶためにはアメリカの方がいいと思ったんです」

宮川氏「アメリカを選んだもう一つの理由は、『世界のフラワービジネス』という本の中で知ったアンディ松井さんのもとで学ぶためでした。2回手紙を書いても音沙汰なく、3回目でようやく研修生として受け入れてもらえることになり、2年近く学ばせてもらいました。

菊農家の後にバラ農家、そして65歳からランを育てはじめて世界の洋ラン王になった方です。アメリカに行きたかったと言うよりは、アンディさんがいたのがアメリカだったんです。

朝5時45分から夜8時まで働いて、365日のうち元旦の午前中しか休まず、ある時は『宮川くん、ご飯を3回も食べている暇なんてないぞ』と言われたりもして厳しい方でしたが、フラワービジネスについてだけではなく、『何のために働くか』を教えてくれた私の師匠です」

第1期生として参加した初回の研修では、洋蘭か農家ハンターどちらで進めるか迷っていたそう

ーアメリカのカリフォルニア州というと、シリコンバレーがあってたくさんの刺激や出会いがある場所だったのではないかと思います。それでも、家業やラン農家といった幼少期からの夢は少しもブレなかったのでしょうか?

宮川氏「はい。アメリカにいる間もずっと『どうすれば花で(戸馳)島を元気にできるのか』を考えていました。蘭といえば開店祝いなどのギフトが一般的ですが、アメリカやオランダではカジュアルに自宅で楽しめる花でした。その文化を日本にも広めたかったんです。私がずっと同じ夢を持ち続けられたのは、両親が毎日楽しそうに働いていた姿をこの目で見てきたからだと思います。

アメリカから帰ってきて、2007年には楽天でネットショップ『森水木のラン屋さん』をオープンさせました。森というのは妻の旧姓で、水木は本名です。サイバー農家を名乗り始めたのもこの頃です。当時の日本では、花をネットでお客様に直接売って届けることはまだまだ一般的ではなかったし、ランとなれば尚更でした」

34歳で足るを知り、正直な思いをぶつけた180での選択

ーネットで花を売るというだけでも簡単ではなさそうですが、そもそもBtoCの商品として一般的ではない洋蘭は、更に難しかったのではないでしょうか。

宮川氏「始めて2年間ほどは思うように売れず、苦労しました。ただ、インターネットだからといって無機質に売るのではなくて、奥さんや子ども、自分の素の状態を発信することで、徐々に売上も上がっていきました。

2011年にオランダに行った際にホテルでみたボトルフラワーに衝撃を受けて、新しく始めたのが『森のグラスブーケ』という、乾燥させたランを真空密閉させた商品です。その頃はネット販売も順調で、1000万円の目標を軽く超えて一時は5000万円の売り上げがありました。

ただ、発送までの作業が追いつかずにクレームが増え、一段落ついた時に疲労で倒れてしまったんです。それでようやく自分がしたいことはお金儲けではないと気がつきました。当時34歳、足るを知った瞬間でした」

第1期修了後の継続的な活動の末、2019年にはグッドデザイン賞を受賞(詳細へ
180チームメンバーと(左 赤羽氏 / 右 清水氏)

ー180では当初、ボトルフラワーをどうやって広げていくかという点から新規事業を考えようとされていましたよね。一方で、2016年には農家ハンターとしての活動を始められています。どのような経緯で、ラン農家ではなくて農家ハンターの方を選ぶことになったんですか?

宮川氏「ボトルフラワーはたくさんのトライ&エラーを繰り返していたものの、まだ先があまり見えていませんでした。農家ハンターは当時、会社でもなんでもないただのボランティア。新規事業を考えるという点では、家業のランが向いていると思ったんです。

ただ、伸びしろがあって個人的にもっと真剣に取り組みたいと考えていたのは農家ハンターでした。事業として成立させる術をここで考えたい、思いをぶつけて形にしたいと思ってそちらを選びました。とはいえチームメンバーの顔は暗く、メンターには『花の方が良かったんじゃない?』と言われましたけどね(笑)」

猪突猛進の2年半。気がつけば自身の生活が危うくなっていた

ーラン農家ではなく農家ハンターとしての活動を選んで、いかがでしたか?

宮川氏「やりたいことはある程度、頭では理解できていたものの、具体的にどうやるのか、そして誰に対しても伝わる理念や手段を持ち合わせていませんでした。180では私の想いや話に耳を傾けてくれるチームメンバーがいたからこそ、農家ハンターの活動全体を俯瞰することができました。

当時、家業である宮川洋蘭の業績が少し落ちていて、社員は私がもっとランに注力してくれたらとは感じていたと思います。ただ、私としては地域貢献はもちろん、事業としても上手くいくという確信がありました」

第4期のプログラム期間内で開催したProject180サミットでは、チームメンバーとともに登壇

宮川氏「2018年12月に180の最終発表があり、翌月には合同会社を作って着々と準備を進めていました。一方で、目の前のことに精一杯でまわりが見えていなかったことも事実です。クラウドファンディングで集めた資金はイノシシさんを捕まえるための箱罠を買ったり、引っかかると携帯に通知がくるようなクラウドシステムの開発・導入に充てていて、それ以外の活動費は私や他の主要メンバーの財布からひねり出している状態でした。

当然資金は底を尽き、私の個人口座から『ネットフリックスの引き落としができません』という通知がきた時は驚きましたよ。残高がたった146円しかなかったことは、今でもハッキリと覚えています。

農家ハンターの活動を通して持続可能な地域社会のモデルをつくると言ったって、このままでは自分の生活が持続しない。しっかり事業として成立させるためにつくったのが『株式会社イノP』です。

農家ハンターは獣害被害の調査から捕獲まで、イノPでは捕獲したイノシシさんを加工して販売し、次の担い手を教育します。これらを一気通貫して提供するのが、イノシシ対策担い手育成プログラムである『行政支援パック』です。横展開できるこのビジネスモデルには、すぐに4つの自治体が興味を示してくれました。今後は行政支援パックをメイン事業として、農家ハンターの育成やICT機器の開発と販売をしていく予定です」

2019年11月に完成した、戸馳島にある「農家ハンター☆ジビエファーム」

活動のブランディングを通して、共感してくれる仲間を増やしていく

ー戸馳島や熊本県に留まらず、全国に波及していくモデルを構築したことが評価されて、2019年度にはグッドデザイン賞や日本農業賞を受賞されましたね。ここから更に農家ハンターやイノPの活動が拡がっていきそうです。

宮川氏「180を通して県外パートナーの方と協働し、メンターの方々から厳しくもハッとさせられる言葉を頂けたことは本当に良かったと思っています。今では農家ハンターとイノPがそれぞれ役割を持ってエコシステムとして回っていく仕組みができました。ここからは、私達の活動やビジネスモデルを全国で同じ悩みを抱える人たちへと伝え、拡げていくフェーズです。

これまで全国各地での講演を通して私たちの活動を伝えてきましたが、最近になって『industry Co-Creation』という大規模なピッチイベントへ登壇したり、『ソーシャルベンチャー・パートナーズ』という2年間の活動助成を受ける機会を頂いたりと、徐々に私達の活動が全国的にも認知されてきました。

2020年の11月に『情熱大陸』で取り上げてもらったのも、2015年に『のど自慢』に出場してお世話になった方への感謝を伝えたことがきっかけです。一方でメディアへの出演オファーには慎重になったりと、活動の幅を広げるためにしっかりと種をまきつつも、意識的なブランディングをしてきました。1人でできることには限りがあります。だからこそ、180のような協働の機会はこれからもしっかりと掴んでいきたいですね」

25歳から40歳の若手農家を中心とした農家ハンターの仲間たちは、今では100人を超えている

180では農家ハンターとしての活動を選んだ宮川氏ですが、家業のラン農家ではその後、従業員が一気に5人増えるなどの相乗効果も生まれています。もちろん、楽天ウェブショップの売上も絶好調です。

「明るく楽しく元気よく」を合言葉に、さまざまな顔で活動する宮川氏。しかし、幼少の頃から変わらないのは「地域を元気にしたい」という一筋の思いです。他者と協働し、地域を愛する姿勢をより多くの人へと伝え、循環の連鎖を生む。そんな豊かで美しい世界の先頭を走っている人が熊本県の戸馳島にいる。そう考えると、地域の未来は明るい気がしてなりません。